私がGSEに注目した理由

人類の歴史は微生物との戦いの歴史でもある、と書き始めて、思わず反省した。考えてみれば、長い歴史の中で、ヒトが微生物と戦えるようになったのは、つい最近のことにすぎない。顕微鏡の登場などで「敵」をはっきりと認識できるようになった19世紀からである。

まず、ジェンナー(Jenner, Edward. 1749-1823. イギリス)が開発した種痘に「ワクチン」という名前をつけたルイ・パスツール(Pasteur, Louis. 1822-1895)の功績が圧倒的だ。微生物が伝染病の原因であることをつきとめ、「細菌学の父」と呼ばれる存在である。そのあとにロベルト・コッホ(Koch, Heinrich Hermann Robert. 1843-1910)や北里柴三郎(1853-1931)らが続いていく。

このころまでは、手洗い(手指衛生)すら、その重要性を認識されていなかった。ハンガリー出身の医師・ゼンメルワイス(Semmelweis, Ignaz Philipp. 1818-1865)は、「手の消毒」が感染予防に効果的であることを示した先駆者で、医師に手術前の手洗いを勧めたが、当時の医学界はそれを全否定していたのである。

水道に塩素をいれるという大発明

結核菌に炭疽菌・コレラ菌を発見したコッホの功績もすごいが、彼はもうひとつ、公衆衛生分野に大きな功績がある。塩素水に殺菌作用があることを発見したのがコッホであった(1881年)。

これを受けて、イギリスやアメリカで上水道に塩素を入れるようになる。日本でも、1921年に東京市が始めている。推進した東京市長・後藤新平はなんと、コッホのもとに留学したこともある細菌学者でもあった。

これは本当に大発見・大発明だったと思う。水道水の塩素消毒ほど、病気の蔓延を防ぐことに貢献したものは、そうはないかもしれない。公衆衛生上の革新であり、大都市を維持し、発展できたのはこのおかげだと言ってもいいだろう。

水は命をつなぐ。しかし、衛生状態が悪ければ、感染症も媒介する。「年寄りの冷や水」というのは、江戸時代に市中で売られていた隅田川から汲んだ冷や水で、体力の落ちている年寄りが腹痛をおこしたことから生まれた表現だという。

ついにヒトが優位に立った20世紀

手指衛生の重要さが認識され、多くの病気の原因が微生物であることもわかり、ワクチンが誕生し、水道水に塩素をいれた。劇的な変化だ。そして微生物克服のひとつの頂点が、フレミング(Fleming, Sir Alexander. 1881-1955. イギリス)によるペニシリンの発見(1928年)と実用化(1942年)である。服用する抗菌剤(抗生物質)の誕生だ。ペニシリンは、多くの負傷兵を感染症から救った。

つまり19世紀後半に微生物学の進歩もあいまって医学が長足の進歩を遂げ、20世紀には微生物に対して、ついにヒトが優位な立場にたてた、ということである。塩素のような除菌剤によって環境内の微生物を制御し、抗生物質で体内の微生物の活動を抑え込み、ワクチンで免疫もつけることができ、感染症の多くを封じ込めることに成功した。

そう、20世紀の私たちは、一部の難病と癌、老化に起因する心臓疾患・脳疾患を除いて、生命を脅かされるような病気の封じ込めに成功した。科学(現代医学)が勝利した、と思っていたわけだ。

そして、押し戻され始めた21世紀

医学の力で、ヒトの領域をちょっと確保できていたのも、「束の間の出来事」だったとみるべきだろう。2020年に始まった新型コロナウイルスのパンデミックは、「科学の勝利」が幻想であったことをまざまざと見せつけられる出来事だった。いきなり、微生物軍に土俵際まで押し戻された。

ほんの少し前まで元気だったヒトが、いきなり重症化し、手を尽くしても亡くなっていく様子を前に、多くの医療者たちは無力感にさいなまれたのではないか。これほどの規模で、生命を脅かす感染症が爆発的に流行し、犠牲者が次々と出る。凄惨だ。

なかでもアメリカの状況が悪い。2021年12月時点で死者数は80万人にものぼる。これは第二次世界大戦の戦死者数40万5339人の2倍である。新型コロナウイルスの場合、犠牲者のほとんどは市民だ。サンフランシスコが爆弾攻撃で全滅するのと変わらない規模の犠牲が出ている。「ただの風邪」と言って憚らない人たちは、きっと数日前まで元気だった身近な人を亡くした経験がないか、それを想像する感性が欠如しているのだと思う。

もちろんそれでも、現代科学は新型コロナウイルスを遺伝子解析でまたたく間に丸裸にし、たった1年でmRNAワクチンを開発するなど、土俵際で踏みとどまり、押し返し始めてはいる。

しかしながら、今回の新型コロナウイルスは、変異のたびに厄介な存在となっていることもまた事実だ。オミクロン変異体が示すように、免疫を回避して感染させるほど手ごわい。

微生物の逆襲、と見るべきだろう。20世紀の終わりころから、すでに兆候はあった。薬剤耐性菌の登場だ。抗生物質で土俵際に押しやったら、菌の側が自衛手段を身につけ、押し返してきた。抗生物質で腸内フローラが全滅し、体調不良の原因にもなる、ということもわかってきた。

つまり、私たちが思うほど、ヒトは高等生物といってふんぞりかえれる存在ではなかった、ということである。じつは微生物に生かされている存在に過ぎない。恩恵も受けている。腸内細菌が消化を助けたことによって、脳に血流を多く回すことができ、脳が発達したのだという説もある。発酵も利用した。お酒もふくらんだパンもヨーグルトも納豆も微生物の恩恵である。

次から次へと危機が訪れる可能性

菌とウイルスをまとめて微生物と称しているが、菌とウイルスはまるで別のものである。菌は条件が整えば勝手に増えるが、ウイルスは宿主(しゅくしゅ)にとりつかないと増殖できない。生物かと言われると、かなり怪しい。

動物を宿主とするウイルスが、変異でヒトをも宿主にした瞬間、今回のようなパンデミックが起きてしまう。この危険性は、鳥インフルエンザウイルスが流行するたびに指摘されていた。そして現実のものとなったのが、2003年のSARS、2012年のMERS、そして今回の新型コロナウイルス感染症である。

ヒトを宿主とした瞬間、大規模なパンデミックが起きる可能性があるウイルスは、自然界に35,000種はあるという。新型コロナウイルスは100年に1度のパンデミックだと言われているが(前回は1918年からの2年間、世界に流行して多数の死者を出したスペイン風邪)、この表現が正しいかどうかは、いまだわからない。「100年に1度」で済むのだろうか、という疑問だ。

ひょっとしたら、次から次へと病原性の高いウイルスがヒトを宿主とし始めるかもしれないし、新型コロナウイルスも変異のたびに科学をあざ笑うかもしれない。私たちはいま、土俵際に追い詰められている。

弱毒化する、という根拠のない思い込み

オミクロン変異体が流行して、ますます信者を増やしているのが、「ウイルスは変異のたびに弱毒化する教」である。「ほら、もう風邪と同じだ」という話をし始めるのは、ほぼ例外なく、「インフルエンザだって毎年、死者が出ていた。コロナだけ特別扱いすることないだろう」という人たちである(2類扱いをやめて、5類にしろ、という主張になる)。

ウイルスは宿主を殺してしまうと、自分も生き残れない、というのがその論拠である。高病原性の変異ウイルスは自滅し、低病原性の変異ウイルスのみが生き残るという適者生存説だ。もっともらしい。

しかし、パンデミックのかなり早い段階で、新型コロナウイルスの感染者は、発症前に多くのウイルスを吐出することが判明している。これがパンデミックの大きな要因である。これまではウイルスを吐出する人=症状の出ている人だったから、周囲が避けることもできたし、準備して接することで、感染を防ぐこともできた。

新型コロナウイルスは違う。隣の元気な人がじつは感染者で、四六時中ウイルスを吐出している。発症は、すでに次の宿主を見つけた後だ。すなわち、発症の数10分後に宿主が亡くなるような超々高病原性変異をしたとしても自滅することはない。新型コロナウイルスに低病原性を選択する圧力はないということである。

変異のたびに弱毒化していく、というのはいまのところ、希望的観測にすぎない。次の変異ウイルスが高病原性でも、驚かないことである。免疫を回避する病原体は強毒化する、というシミュレーションもある。

cf.
免疫やワクチンからの逃避を繰り返す病原体は高い病原性を進化させる
https://www.soken.ac.jp/news/7238/

「集団免疫」も幻想

抗生物質には耐性菌が登場し、ワクチンをすり抜ける変異体が次々と生まれている一方、特効薬もない(そもそも風邪の特効薬ができた試しがない)のが現状である。つまり、20世紀に土俵際に押しやった微生物の逆襲を受け、私たちが土俵際に追い詰められているのが21世紀だ。

劇的に効いたペニシリンのような科学の成果は、もう期待できないと私は考えている。相手も学んできたとみるべきで、これからは総合的な対策で対抗していくほかないだろう。そしてそれこそが、ウイズコロナ(ウイルスとの共生)への唯一の道だと思う。

決して、科学と医学を否定しているわけではない。オミクロン変異体は低病原性ということではなく、急速な医学の進歩で、軽症のまま抑えることに成功しているから、そう見えるだけだという意見がある。たった2年の間に治療法も進歩しているのだから、もちろん科学は強力な武器だ。

ただ、それにも限界がある、ということを世界が身をもって体験したのが、新型コロナウイルスパンデミックだった、と言っていいだろう。次々出てくる変異ウイルスをみても、撲滅できる未来は到底、予想することができない。考えてみれば、インフルエンザでさえ、克服できた試しがないのだった。

その意味では、集団免疫に過大な期待をもつのも禁物だろう。「ワクチンをうっても感染するなら、意味がない」とか、「軽症で済むならオミクロンにかかって免疫をつけたい」といった発言が出てくるのは、麻疹のように免疫がついてしまえば、二度と感染しない病気とCOVID-19を同一視している証拠だ。

かかりにくくはなるし、かかっても重症化しづらくはなる。それが新型コロナウイルスへの罹患またはワクチン接種による免疫獲得の効果だ。でもかかることはあるし(ブレークスルー感染)、重症化する場合もある。集団免疫によって、ぴたっと感染がおさまるという未来は、おそらく永遠にやってこない。

対抗するには総合対策しかない

これを踏まえると、来年も再来年も、きっとマスクを外すのはかなわない。2019年の生活に戻せるのは、5年後かもしれないし、10年後かもしれないという状況だと思う。しかも、新型コロナウイルスパンデミックが落ち着き始めた頃に、また別の高病原性ウイルスが襲ってくる可能性もある。

私は生活様式から変更していく必要があるのではないかと考えている。医学だけに頼るのはもう限界だ。ひとりひとりの生活スタイルから改善し、総合的に微生物に対抗するほかないと思う。

といっても、日本人の生活様式はもともと感染症に強い。キスせず、ハグせず、お辞儀でソーシャルディスタンシングをとる。靴をぬいであがり、トイレには別の履物を用意し、毎日お風呂に入り、手づかみで食事はしない。神社にお参りする際も、まずは手を洗う。江戸時代の大掃除の絵を見て感心したのは、その当時から、頭を手拭いで保護していたことである。

ひょっとすると、この生活様式は、感染症対策として育まれてきたものかもしれないとさえ思う。日本は高温多湿の、菌が好む環境だ。靴を脱いであがるのも、不浄(トイレ)と生活空間を隔離するのも、箸を使って食べるのも感染症対策だったのかもしれない。

だから我々は、がらりと変える必要はない。ほんの少しの修正で理想的なスタイルになると考えている。

まず、「手で触るものは汚い」という感覚の徹底だ。手洗いが感染防止に有効であることはもう常識だが、それは菌・ウイルスを手が運ぶからである。ということは、手で触るものは汚染されている可能性が高い、ということだ。

驚いたのは、クルマのステアリングは公衆トイレの便座の何倍も汚い、という調査結果である。それくらい、手には菌・ウイルスが付着している。言われてみれば、営業車のステアリングを通じてインフルエンザに感染した事例もあったし、カラオケによるインフルエンザクラスターの調査では、手渡しのマイクが主たる感染源だったという調査もある。

cf.
How clean is your car? Steering wheels have nine times more germs than public toilet seat
https://www.dailymail.co.uk/news/article-1379830/How-clean-car-Steering-wheels-times-germs-public-toilet-seat.html

生活習慣上、気になるのはネクタイだ。頻繁に手で触る上、洗わない。しかも相手の飛沫を受ける位置にある。ネクタイを締めていると印象がよく、営業するなら、あるいは診察するなら締めたほうがいい、という調査もあって難しい判断になるが、少なくともパンデミック中はノーネクタイにするほうが感染リスクを下げられるだろう(ネクタイを見て「汚い」と感じる人が増えてくると、むしろ締めないほうが好感度がアップするようになるだろうが)。

飲食店の調味料も気になる。飛沫のかかる位置にずっと置かれていて、誰もが手で触るものだ。そしてテーブル清掃はするけれど、調味料清掃はしないお店が大半である。

毛髪も汚い、という感覚

見過ごされているのが毛髪である。国立感染症研究所によるダイヤモンドプリンセス号の調査では、ユニットバスの床に続いて、枕から多数のウイルスの痕跡が発見されている。枕についたということは、髪の毛についていたということである。

吹き出物に悩む若い人が、前髪をばっさり切ったらおさまった、というのは、よく聞く話だ。それくらい、毛髪には菌が付着する。静電気のせいもあるだろうし、整髪料が付着させるということもあるだろう。満員電車で後ろに感染者がいたとすると、(マスクも100%の遮断効果はないので)髪の毛にもらっている可能性が高い。

でも、髪の毛が汚い、という感覚はあまりもちあわせていないので、食事中でも何気なく髪の毛を触ってしまう。これは、もうやめたほうがいい。私はパンデミックの初期から、「帰宅したら真っ先にお風呂。衣類は洗濯機へ」と書いているのだが、これは毛髪や顔の表面に付着するウイルス対策だ。まっさきにシャンプーをすると、その過程で手指に皺にひそむウイルスも始末できる。

新型コロナウイルスはモノの表面で長く寿命を保つ。その中でもオミクロン変異体はとくに寿命が長い、という研究もある。つまり髪の毛についたウイルスも感染力を長く保つということだ。

GSEと柿の葉寿司の共通点

ここまで書いてきたことは、2020年3月の段階で考えていたことである。世界に広がるパンデミック、欧米と日本との落差、続々と報告されるウイルスの詳細をみて、これはもう生活習慣を含めた総合対策で微生物軍を押し返すしかないと感じていた(2年の歳月の間にmRNAワクチンが完成し、変異体が次々と上陸しているが、考え方を修正する必要に迫られる要素はなかった)。

ちょうどそこに、知人からGSE(Grapefruit Seed Extract)という薬剤を教えてもらったのである。2020年4月のことだった。「これは微生物軍を押し戻す武器になる」と直感。そこからMISTECTとBNUHC-18を世の中に出すために邁進したという経緯である。

グレープフルーツ種子のエッセンスであるGSEに注目した理由はいくつかあるが、「柿の葉寿司と似ている」というのが、評価した最大のポイントである。

微生物との共存の中で、日本人が工夫してきた代表が、防腐目的での植物の利用だ。おにぎりを竹の皮でくるみ、経木の弁当箱にいれ、ハランを仕切りに使い、寿司を笹や柿の葉でくるむ。すべて植物がもつ除菌能力の活用である。

もう、何年続いていることになるのだろう。上杉謙信に笹の葉にのせた寿司を献上したのが笹の葉寿司のはじまりだとか、柿の葉寿司は江戸時代に紀ノ川ぞいで誕生したといった話があるから、植物の葉の活用は400年ほどになるわけだ。

それでも、耐性菌が出ていない。ここが大きなポイントである。「柿の葉耐性菌が出てしまったので、もう柿の葉寿司をつくれない」という状況には陥っていない。植物フラボノイド(ポリフェノールの一種)は除菌力をもっているが、耐性菌が出にくいという特長がある。

そして、GSEはヒトに安全である。塩素系の除菌剤は酸化物質で、ヒトに有害だ。空間に高濃度で噴霧するとウイルスをやっつけることができるかもしれないが、それ以上に、その場にいるヒトに影響が出る(気道がやられ、肺炎や肺気腫をおこす)。

一方、GSEは抗酸化物質である。ポリフェノールのかたまりだ。海外ではGSEをサプリメントとして飲み、ネブライザーにいれて吸入している。多数の食品や化粧品に使われており、健康被害の報告もない。すなわち、多用しても耐性菌が出るなどの副作用の心配が小さく、かつ、ヒトに安全ということだ。昔からの生活の知恵の延長で、新型コロナウイルス対策ができると考えたのである。

GSEを生活にとりいれると、微生物軍を少し押し戻せる

その後、COVID-19の中等症の患者に、治療の補助としてGSEを含む点鼻薬「Xlear」を投与したら、早く治癒したという論文も出てきた。つまり、日常生活にGSEを取り入れると、ほんの少し、微生物軍を押し戻せるということだ。なにより、多用しても健康被害の心配がなく、耐性菌もつくらない。

もちろん、GSEだけでなく、緑茶や紅茶にも類似の機能性があることも知られている。ただ、それらと比べてのGSEの長所は、扱いやすく効き目が強力であることだ。無色無臭の液体で、スプレーしたり(BNUHC-18)、空間噴霧して表面コーティングしたり(MISTECT)できる。

私は寝癖なおしにBNUHC-18を使い、毛髪をGSEコーティングしてから外出している。オフィスや会議室にはMISTECTを実施し、トイレの個室を使うときは、BNUHC-18を空間にスプレーする。そして、帰宅したらアウターのケアにも使う。

GSEを最初に研究したのはJacob Harich博士だ。彼は間違ってグレープフルーツの種子を噛んでしまい、そのあまりの苦さに「何かある」と考えて、フロリダに移住して研究を続けた。

ひょっとすると、これはコッホによる「塩素の消毒作用の発見」に匹敵する出来事かもしれない。Harich博士が実用化したGSEは、微生物に押しまくられている我々の強い味方となる植物エッセンスであり、その役割は塩素に匹敵するものになると私は考えている。