PrecautionとDefensive formation

Precautionは見慣れない単語だが、caution(注意)の頭にpre(前)がついているから、意味は想像できるだろう。「用心」のことだ。自動車の運転でいえば、走り出す前の点検(始業点検)がPrecautionである。

といって、いまどきボンネットをあけてエンジンオイルやブレーキオイルなどを点検してから運転する人はいないだろう。自動車の信頼性がものすごくあがっているからである。むしろ素人がボンネットをあけるほうがトラブルの元になりかねないくらいだ。

用心と防御の違い

医学用語としてのPrecautionは、感染をひろげないために実施する、非医学的介入を指す。要するに「感染対策」だ。マスクやPPEで防御したり、器具を消毒したり、病気に応じて個室入院(隔離)としたり、病室を注意深く清掃したりなどである。しかし、どうも日本語で「感染対策」と表現したとたん、別の概念のものもまじってくるようだ。代表例が「人流の8割減」とそれを実現するための休校や緊急事態宣言(他国ではロックダウン)や鎖国である。

2020年、いよいよ国内でも感染者が確認されたとき、「人流を8割削減しないと、42万人の死者が出る」*1という試算がなされ、それに基づいて緊急事態宣言が行われ、入出国にも制限がかかった。だが、これをPrecautionとしてとらえるべきではない。その範疇を越えている。人流削減は大規模な社会的防御策だ。未知の病原体に襲われたからこそ選択された緊急避難的措置であり、目的は次の三つであった。

  • いたずらに死者が増えるのを防ぐ
  • 病院に患者が殺到して医療崩壊することを防ぐ
  • 相手の正体や性質など詳細がわかるまでの時間を稼ぐ

これはDefensive formation(防御戦術)とでも言うべきものであって、Precautionではない。なにより、こんな戦術を何年も続けるのは無理だ。一時しのぎとしてしか成立しない。

PrecautionとDefensive formationを混同するな

私は、PrecautionとDefensive formationをあわせて感染対策としてしまっていることが、人々の反応を複雑なものにしていると考えている。「まだ用心すべき状態だ」と書けば、「人流削減だの時短営業だの外国人観光客の入国制限やイベントの中止など、もうコリゴリ」という反対がくる。

こんなのはワクチンもなく、病院にマスクもPPEもろくになく*2、みんなでとじこもって難を逃れるしかなかった2020年と、デルタ変異体という病原性の高いウイルスに襲われた2021年の特別なDefensive formationであるに過ぎない。そしてフォーメーションの多くはワクチン接種が進んだ2021年中にほぼ撤廃されている(海外旅行受け入れの完全解禁はもうすこし遅く、2022年10月11日である)。

「感染するな」の意味もどんどん変わっている

もう緊急避難的な防御をすべき段階は過ぎている。そもそも、「感染するな」の一言でさえ、経時的にその意味は変化しているのだ。まとめておこう。

  • 2020年の「感染するな」
    パンデミックを防ぎたい。新型コロナウイルスのことはよくわかっていない上に、各国をみると人工呼吸器の奪い合いになるほど被害はひどい。この病気を封じ込めたいので、家にいてくれ。
  • 2021年の「感染するな」
    今度の変異体(デルタ)は感染すると重症肺炎を起こして死ぬ人が多い。治療法もまだ確立されていない。命が惜しいなら感染を避けろ。3密の回避が有効だ。
  • 2022年の「感染するな」
    ワクチン効果で致死率は落ちたが、オミクロン変異体は免疫回避能力が高く、あっという間に医療崩壊するほど感染者が増えるから、やはりうかつに感染してくれるな。
  • 2023年以降の「感染するな」
    ここまで国が面倒をみてきたが、もう自己責任とする。すなわち、国が主導してのDefensive formationは撤廃する。麻疹やHIVなどと同じ感染症法の5類に位置づけるから、Precautionも含め、自分で考えて対処してくれ。

こう整理すると、新型コロナウイルスについての知見が集積され、ワクチンが開発され、治療も進歩するにつれて、社会の対応が変わってきたことが実感できるだろう。なお、当初は封じ込めを意図したが、それはもう無理なことがわかっている。大変残念ながら、新型コロナウイルスは複数の動物への感染が確認されているので、人間社会だけで撲滅しても封じこめられない。

5類化の意味

つまり、Defensive formationを併用する段階からPrecautionのみの段階に移行したことが、「ウイルスと共に生きる」ことである(ウィズコロナ)。ところが、「Precautionもやめて、2019年の生活に戻せ」というせっかちな人が多すぎる。それは無理だ。

これは国の責任も大きい。2023年5月8日に新型コロナウイルス感染症を感染症法の5類に変更したわけだが、そのときの基本的な論理が、「もう弱毒化して、インフルエンザより致死率が低いから」というものだった*3。そんなに問題のない病気になったのなら、そもそも無類になっている。

感染症法の分類は、病原性の順にランキングしたものではない。病気に対して国家権力が私権を制限するルールを定めたものである。行動の自由を奪う病気を法律で定めることにより、国家が権力を濫用できないようにすることが目的の分類だ。
「もう国は感染拡大の責任はとらない。あとは各自が注意して対応してくれ。ただし感染状況は調査して公表する」
というのが5類の病気である。国としてもはや新型コロナウイルス感染症に対するDefensive formationはとらないから、各自がPrecautionで防いでくれ、ということだ。「マスク着用は任意」とも言っていない。「マスク着用は個人の判断」である。

現実には、5類化=もうPrecautionもしなくていい、という誤解をする人が多数生まれてしまった。なんと不幸なことだろう。

このままでは被害が大きくなる可能性が高い

国全体で感染対策(Precaution)を放棄する人まで増やした結果、2023年夏から感染者数が高止まりを続けている。中でも被害が大きいのは子どもたちで、新型コロナだけでなく、インフルエンザや溶連菌感染症、アデノウイルス感染症などが次々と感染爆発し、学級閉鎖がかつてない頻度で発生している。

これは大変に憂慮すべき状況だ。二つの懸念がある。第一は、何度も感染する子どもたちの将来に不安があることだ。

新型コロナが軽症で済んでも、血管障害をおこす可能性が高くなるとか、IQが落ちるとか、後遺症で通学もできなくなる子が出る、1型糖尿病が増えるといったことが明らかになっているし、自然免疫がダメージを受けて、他の感染症にかかりやすくもなる(これが複数の感染症が爆発するマルチデミックの原因)。

感染者の多い海外では、高校生や大学生のアスリートの突然の心臓発作も複数出ており、新型コロナウイルスが心血管系にダメージを与えることはもう明白な事実である。

第二は、子どもが軽く済んだとしても、親はタダでは済まないことが多いということだ。アメリカでは18‐44歳の死亡率が予測より34%も多い*4。そしてなにより、父か母、または両親を新型コロナに奪われた「コロナ孤児」が30万人規模となっている*5。たしかに子どもは感染しても軽症で済むことが多いのだが、その親はそうではない。

日本の被害はこれから大きくなる可能性が高い

幸い、日本は初動に成功し、致死率の高かったデルタ変異体とワクチン接種の競争にも勝利して死者を抑え込めたので、コロナ孤児もぐっと少ない。2022年末の時点で2,700人である*6(「少ない」というのはアメリカとの比較の話であって、絶対値として2,700人でも多いと思う。悲劇は避けたい)。

しかし、今後はわからない。というのも、子どもの親たちの世代の約40%が、最初の2回のワクチン接種で終わっているからである*7。もう2年半が経過している。この間、ブースター接種をしていない人たちは脆弱な状態だ。事実、現場からは「2回接種で終わっている人は肺炎になりやすい」という報告が多数ある。

さらに、親の世代は複数回感染でLong COVIDに悩む可能性が高くなる*8。重症化を免れても、後遺症に悩む日々が続いてしまうと、やはり家庭の平穏は脅かされるだろう。子どものマスクをとって本人も親も感染したら、笑顔は永遠に失われるかもしれない。

だからこそのPrecaution

アメリカの感染者の統計では、平均すると誰もが2.72回は感染しているという統計が出ていた*9。2023年が終わった段階で日本の大人の既感染率は約60%だが、いずれは全員が感染することになるだろう。いまや焦点は「かからないこと」ではない。「感染してもウイルスの被害を最小限にすること」である。

新型コロナウイルスの厄介なところは、軽症で済む人も重症化する人もいること、急性期も過ぎても味覚・嗅覚が戻らなかったり、倦怠感が強かったりなどの不調に苦しむ人(Long COVID)とそうでない人がいることだ。ウイルスによる被害に大小がある。

それを決めるのはなんだろう。基礎疾患の有無とか肥満だとか、さまざまな要素がありそうだが、最も影響のあるパラメータは免疫の状態と「感染したときに曝露したウイルスの量」であると思われる。というのも、全員がマスクをしていても発生したクラスターとノーマスク宴会のクラスターで、病状の重さが違うという観察結果があるからだ(治療にあたる複数の医師の証言による)。

この二つで大きく変わるのが、曝露するウイルス量である。多数のウイルスが細胞内に侵入し、一斉に増殖をはじめたら、免疫が抑えきれないのは当然のことだろう。多勢に無勢だ。炎症を起こす箇所も増える。身体中のいろんな臓器に侵入される。換気/空気清浄機/マスク/手洗いといったPrecautionのうち、とくに換気と空気清浄機とマスクは、曝露量を減らすのに極めて有効である。絶対に続けたほうがいい。

究極、ウイルスを吸い込むのを防ぎ、手から目・鼻・口にもちこむことを防げば、感染しないのである。それをどれほど徹底できるかだ。そしてその努力がウイルス曝露量を減らし、大きなダメージを受けることも防ぐ。

被害を大きくする二つの誤解

とても気になっているのが、感染した人がノーガードになる傾向にあることだ。中には麻疹のように、一度感染すれば免疫がつき、二度とかからないと思い込んでいる人までいて、あまりの誤解に仰天する。これはまったく逆だ。

カナダの統計が示すように、感染を繰り返すほど被害が大きくなる。一度感染した人は、二度目の感染を避けるべきだし、二度感染した人は三度目の感染を避けるべきだ。
「一度かかったけれど、インフルよりラクだった。たいしたことないよ」
という発言を聞くとゾッとする。二度目ははるかに苦しいかもしれないし、後遺症に悩むことになるかもしれないし、下手をするとサイトカインストームを起こして若くても死亡するかもしれない。複数回感染は避けるべきだ。つまり、感染した人ほど、Precautionが必要なのである。

そしてもうひとつ、重大な誤解がある。感染してからしばらく続く咳や咽頭痛や発熱などの症状、すなわち急性期の症状が新型コロナウイルスによるダメージのすべてあり、それを過ぎたら「治った」(回復した)という誤解だ。これは感染した全員に言えることだが、けっして治ってはいない。というのも、体内では炎症が続いていることがほとんどだからだ。

今後の課題は感染者の養生の徹底

台風一過で元通りになることはまずない。河川は増水したままだし、木も看板も倒れたままだ。人間の身体も同じである。ウイルスと免疫の戦いが終わったあとは、身体中が凸凹だらけだと思うべきだ。炎症を抑え、ダメージを受けた組織が修復するのを待たないと、回復したとは言えない。

そろそろ私たちの社会は、増えてきた新型コロナ感染者をどうケアするかも重要な課題となる。昔から病気に痛めつけられたあとは「養生する」のが当たり前だった。なぜか現代人はその知恵を捨ててしまっており、急性期が過ぎて会社や学校に復帰したばかりの人間に、いきなり普通の負荷をかけている。それは無理だ。

無理が続くと、Long COVIDにもなりやすい。3か月くらいかけて、徐々に負荷を増やすくらいの対応をするべきなのである。先週感染して休んでいた生徒に、いきなり持久走をさせるとか、部活に戻すとか、社員をいきなり厳しい現場に出すとかは、絶対に避けるべきである。

そして、後者は思いもよらない事故を起こす可能性も高い。企業は認識を改めるべきだ。感染から復帰したばかりの人間は、まだ健康も体力も取り戻してはいない。一瞬のミスが重大な事故につながる現場への復帰は、知覚テストをパスしてからにするくらい慎重な対応をしておかないと、後で後悔することになる。

ウィズコロナは対応を間違えると、全員を病気にしてしまう。それくらい新型コロナウイルスは厄介である。ドライブ前の仕業点検なら省略してもまず影響はないが、シートベルトを締めないと万一のときに響く。子どもはチャイルドシートが必須だ。さもなくば大怪我か死亡という結果が待っている。

子どもの将来、家族の幸福、国の未来はPrecautionとAfter careが鍵を握るといっていい。

注記

*1 厚生労働省のクラスター対策班にいた西浦博博士(理論疫学。当時北海道大学教授)が2020年4月15日にマスコミ発表した試算。不要不急の外出自粛などの行動制限をとらなかった場合は、流行収束までに国内で約42万人が感染によって死亡するという試算であった。結果として国は休校や緊急事態宣言、給付金や時短営業への補助などの総合的な対策をとりながら人流の削減を実施し、42万人死亡という事態は免れた。
ただそれだけの話だが、これを予言・予測だととらえ、「外した」という批判を論文ではなく、SNSに書きつらねる破廉恥な学者もいる。警告は外れることに意味があるのだし、外れたのは日本国民全員の努力の結果だ。「外した」のではなく、「外れるように対策できてよかったね」というべきだろう。
喉元過ぎると熱さ忘れるとばかりに、「人流を削減する必要などなかった」と言い出す人もいる。「傘をさしたら濡れなかったから、そもそも傘なんかいらなかった」という理解不能な批判がまかり通ることに驚愕する。現実にアメリカにあてはめると死者数の規模はほぼぴたりと合致しており、あのシミュレーションの精度は高かったと評価できる。

*2 もうすっかり忘れ去られているが、いきなり新型コロナウイルスに襲われた日本には、マスクも防護服もろくになかった。この問題の解消をはかったのが、アベノマスク政策である。政策全体の主目的は医療関係にサージカルマスクを配ることであり、布マスクの国民への配布ではない。
cf.
「アベノマスクを擁護する」

*3 あのときの説明に用いられた資料の「インフルエンザの致死率」が過大だったという指摘が出ている。感染者数ではなく、入院者数が母数だったからだ。そして現実をみると、死者数で比較すれば、新型コロナはインフルエンザよりはるかに危険である。インフルエンザと新型コロナの死者数の比較グラフを出しておく。赤線が新型コロナの死者数だ。人口動態統計の数字である。

*4 アメリカの事例を紹介するのは、感染において日本より先行している国であり、先行事例となるからである。
https://twitter.com/LauraMiers/status/1764745080533889522

*5 https://imperialcollegelondon.github.io/orphanhood_USA/

*6 Imperial College Londonの推計値(残念ながら、元データが得られなくなったため、その後の更新はとまっている)。
https://imperialcollegelondon.github.io/orphanhood_calculator/#/country/Japan

*7 ワクチン接種率は首相官邸ウェブページで随時発表されている。
https://www.kantei.go.jp/jp/headline/kansensho/vaccine.html

*8 カナダの調査によれば、感染を繰り返すたびにLong COVID罹患率が高くなる。3回感染で37.9%が罹患。
https://twitter.com/GosiaGasperoPhD/status/1745332595209162890

*9 以下の投稿による。
https://twitter.com/JPWeiland/status/1763712300807000488
なおこれは平均であって、現実には0‐1回の感染者グループと4回も5回も感染しているグループに分かれているだろう。そして注目しておきたいのは、全国民が平均2.7回の感染を経ても、集団免疫など達成されておらず、感染被害がおさまっていないことである。