私が某ウイルス学者を肯定していない理由

そろそろはっきりさせなくてはならないようだ。私は京都大学准教授でウイルス学が専門の宮沢孝幸氏の新型コロナワクチンと感染に関する論説を、いまのところは一切信頼していない。

あくまでも**いまのところは**である。全否定しているわけではない。これから詳しく理由を述べる。私の判断を説明するための前置きが長くなるので、そこはご了承願いたい。

信用と信頼の話から

まず、「信用と信頼」の話から始める必要がある。一般的にこの二つはほぼ同義語として使われているが、区別しようという提案をした学者がいる。北海道大学の心理学者・山岸俊男氏(1948-2018)だ。

山岸氏は日本人とアメリカ人を被験者にした心理学的実験を行う。

  • 日本人は、最初は疑り深く、親しくなろうともしないが、いったん相手を信用すると、騙されるまで信用し続ける。
  • 一方、アメリカ人はフレンドリーで、すぐに相手を信用するが、心のどこかで疑っていて、騙されにくい

という結果になった。この実験から、山岸氏は「信用」と「信頼」の二つを区別して使おうという提案をした。相手を信じきるのが信用、どこかで疑っているのが信頼である。この実験をまとめたのが『信頼の構造――こころと社会の進化ゲーム――』(山岸俊男、東京大学出版会、1998)だ*1。

信用取引と信頼取引

親会社と子会社は信用関係にあるが、独立した会社同士は信頼関係にある。前者は互いに相手が裏切らないと安心できる。後者は信頼すべき内容を契約書という形にして、持続的に相手を観察しながら取引をする。前者を「信用取引」、後者を「信頼取引」と書くことにしよう。

信用取引は、機会費用が高く、取引費用が安い。たとえば鉄道会社は、線路のメンテナンスをする会社を子会社にするのが普通だ。

  • 親会社‐子会社の関係なので、互いに裏切ることを心配することはなく、これは信用取引になる
  • 信用取引なので、機会費用は高くなる
    • 他にも安く請け負う会社があるかもしれないのに、みすみす見逃す
  • しかし、取引費用は安くなる
    • 思わぬ事故等で緊急にメンテナンスの必要があっても、「他の会社の仕事で手一杯です」と断られたりする心配がない

この正反対の取引が入札制度やオープン調達で、多くの会社から提案をもらって、最良の提案に決める。信頼取引である。

信頼取引は選択肢が多く、機会費用は安くなるが、取引費用は急騰する。群を抜く安い提案があっても、選択の前に企業の信用度や製品の性能や信頼性を確認しなくてはならないからである。

医療制度は信用取引として育てられてきた

なんでもかんでも「取引だ」というと違和感をもつかもしれないが、市民にとっての医療も取引であり、機会費用と取引費用の問題を考えざるを得ない。現行の医療システムの是非を論じるために、「信用取引の医療」と「信頼取引の医療」について考えてみよう。

  • 信用取引の医療
    どの病院のどの医者にかかっても得られる結果は基本、同じであると期待できる世界。「あ、あの先生なら治してくれたのか」「こっちの病院だったら治療費はもっと安かったのか」と残念がらずに済む。
  • 信頼取引の医療
    調子が悪くなったら、まずどの病院がいいかを調べるところから始まる。待ち時間を気にしなければ、最高の医療を選択することができる一方で、「うわっ、あっちの病院だったら半額で済んだ」というリスクも生じる世界。

間違いなく、現行の医療システムは信用取引を前提に設計されている。そしてこうみると、国は信用取引としての医療を維持するために必要なことをやっていると理解できるだろう。

医師国家試験と免許制度は、どの医者にかかっても得られる結果は基本、同じであることを裏付けるための制度であり、診療報酬制度で価格も統一している。このほか、医療機器認定制度、医薬品の承認制度など、医療を信用取引とするために必要な施策を粛々とこなしてきた。きわめていい仕事をしていると評価すべきここまでの歩みである。

信頼取引はすべて患者の自己責任の世界

もしも国が信用取引型医療を放棄し、信頼取引型に方針変更したら、何が起きるだろう。医師に免許制度なく、医薬品に承認制度がない世界である。

患者は必死に調査をして、まともな医師かそうでないかを見極めることから、病院通いが始まる。診断が出ても、それが信頼できるものであるかどうかを自分で判断しなくてはならない。もちろん、注射や薬の服用の前に自分で中身を検分する必要がある。

「点滴? 中身はどこの何ですか。ちょっと待って、調べます」

あまりにも取引費用が莫大になりすぎる。偽医者が偽薬で治療をして亡くなっても、それを事前に見抜けなかった患者が悪いことになる。

こんな医療を求める人はいないだろう。国が税金を使って、医療を信用取引とするために必要な基盤を整え、各種の承認制度を走らせているのは、じつに正しいのだ。

免許をとった後も医療の質を維持するEBM

そうはいっても、名医もヤブもいるのが現実だ。F1ドライバーにも何度も優勝する人も、一度も入賞もできない人もいる。また、医学はいまも進歩を続けており、何十年も前に医師免許をとったという事実だけでは、最新の最良の医療を提供できることを保証しない。

これは永遠の課題だろうなと誰もが思っていたところに登場したのが、EBM(Evidence-Based Medicine)というコンセプトである。G. H. Guyatt博士(マクスター大学)が1991年に提唱した。「根拠に基づく治療」をやろうという話だ。

このコンセプトは医学界で注目され、順調に育ってきたと私は考えている。ちょうど時期を同じくして、インターネットの世界でWorld Wide Webという技術が確立され、世界規模での情報の共有が容易になったことが大きい*2。もしもインターネットがなければ、EBMがこれほど定着することもなかったのではないか。

EBMというコンセプトが脚光をあびると同時期にウェブが誕生し、データベース技術も進歩し、世界規模でエビデンスを迅速に共有できるようになった。当然、エビデンスの質と量がめざましく変化する。経験と勘に基づいて治療するほかなかった医師たちが、その場で最新の研究論文を参照して治療の参考にしたり、新しい症例について論文で迅速に報告したりできる時代なのである。

エビデンスで医療が回る

この威力をまざまざと見せているのが、COVID-19のパンデミックだ。The New England Journal of Medicine(NEJM)など権威ある医学雑誌も、ウェブを通じてCOVID-19関連の論文を公開した。世界中で発表された論文を、リアルタイムで日本からも参照できる*3。

また、査読前の論文を公開する仕組みもある。査読前だから信頼性は下がるが、重要な指摘なら公開のスピードを重視したほうがいい。なにしろCOVID-19は新しい病気で、時々刻々と情勢は変わっている。

インターネットが強化したEBMが私たち市民にもたらすのは、医療水準の高レベルでの均質化だ。学会や厚生労働省は最新のエビデンスに基づいた診断・治療のガイドラインを作成し、常に更新しつつ、公開している。すなわち、

  症例研究→論文発表→評価の確立→ガイドラインへの反映

という生態系がCOVID-19のような新しい病気でも成立しており、どの段階にも容易にアクセスができる状態である。最近耳にするようになった「標準医療」とは、EBMに立脚した最善最良の治療ガイドラインに基づく治療のことであり、それに従わず、独自の治療ばかり行う医師は信用するに値しない*4。

ちょっと似ているのは裁判の世界だ。専門家(検事と弁護士と裁判官)同士が議論し、判断し、判例が積みあがる。裁判官はいないが、論文の世界もかなり似ていて、発表後、追試されたり、別の論文で否定されたりして、評価が固まり、エビデンスが積みあがる。どちらも市民自身に判断させない(取引費用を押しつけない)ところが重要である。

宮沢孝幸氏はまず論文発表を

やっと本題である。医療は信用取引でなければ、市民の負担が膨大になることを説明した。そもそも、医学的な専門知識のない市民が、名医を選ぶことも、医者同士の意見対立を判定することも無理な話だ。

ところが宮沢孝幸氏は、無茶な信頼取引を市民に押しつけている

  • mRNAワクチンは危険
  • 子どもは感染しても無症状か軽症だから、感染して免疫をつけるほうがいい

と言われても、その真偽を確認する手段を市民はもたない。これは学者の態度としてはあまりに不誠実だ。

まずは自らの主張を論文にして世に問え

私が申し上げたいのは、この1点である。NEJMなどの査読つき論文誌にその主張が掲載されれば、その段階で信頼性がかなりあがる。その上、世界でその論文が批判的に検討され、受け入れられれば、宮沢学説は最高レベルのエビデンスとなる。

市民に語りかけるのは、著書を刊行するのは、その後にすべきなのである。これなら市民に取引費用を押しつけることもない。冒頭で**いまのところは**と書いたのは、論文が出ていない間は、ということである。

主張をみる限り、宮沢学説が正しければ、世界中が間違った選択をしており、世界中でとんでもない数の被害者が出ることになる。ちっぽけな日本でちっぽけな講演会をやって語りかけている場合ではない。いますぐ世界を救いに行くべきだ。論文を通せば、ノーベル生理学賞の有力候補になるだろう。

間違って理解されると困るから申し添えておく。私は批判しているのではない。期待しているのだ

発言の撤回と謝罪を求める

世界の恩人となることを期待しつつ、ひとつだけ、批判させていただく。宮沢氏はテレビ等を通じて、京都大学准教授の肩書で、

「子どもは感染しても無症状か軽症だから、感染して免疫をつけるほうがいい」と発言している。この発言の前半部分を命題として正確に記すなら、

「すべての子どもは感染しても無症状か軽症である」

となるだろう。しかし実際には、40度を越える高熱にぐったりし、激しい咽頭痛で水も飲めず脱水症状を起こしている子どもや、1型糖尿病を発症した子や、感染が判明した翌日に容体急変して亡くなった子どもが出ている。

つまり命題の反証例が出ていることは明々白々な事実であるから、この発言はいますぐ撤回し、子どもたちとその親に謝罪していただきたい。そうでなければ、京都大学も、この発言を信じて子どもを亡くした親などからの訴訟リスクを負うことになるだろう。

(後半の「感染して免疫をつけるほうがいい」は宮沢氏の学説なので、現時点では判断を保留する。早くそれを証明する実験等を実施し、論文にしてください。)

注記

*1
この本を読み、来るべきネット社会を構造化するいいコンセプトだと直感したので、山岸俊男先生に対談を申し込んで、受けていただいた。この記事はそこでのディスカッション内容も踏まえて書いている。

*2
もともとウェブ技術は、欧州の研究所で、研究成果を共有する仕組みをつくれないかということから考案されたもの。Tim-Berners Leeというアメリカ人技術者が1989年に開発した。HTML言語で記述した文書をhttpプロトコルで配信する。
需要が爆発したのは1992年に、イリノイ大学NCSA在籍中のMark AndreessenらがHTML文書の文字と図版を表示できるソフトを開発し、NCSA Mosaicという名前で無償配布してからだ。すぐにこれは「ウェブブラウザ」と呼ばれることになった。

*3
日本においても、ウェブによる迅速な情報発信・情報共有が治療に役立った事件があった。1996年7月に大阪府堺市で起きた「堺市学童集団下痢症」事件である。

7月11日には下痢、腹痛、発熱などの症状を訴えて欠席や早退をする児童が出はじめ、12日には未曾有の規模となる。堺市は対策本部を設置し、近隣の病院にも受け入れ要請をし、必死に対応にあたった。

14日の時点で患者数2,691名、入院患者140名。そして対策本部はこのうちの7名から「病原性大腸菌O157」を検出したことを発表した。ウェブの本領発揮はここからだ。大阪大学医学部がウェブページを使って、時々刻々と治療に役立つ情報を配信したのである。

この事件も、忘れてはいけない事件だ(堺市は7月12日を「O157堺市学童集団下痢症を忘れない日」と定めている)。本件で児童7,892人を含む9,523人が腸管出血性大腸菌O157に感染し、3人の児童が死亡。それだけでなく、併発した溶血性尿毒症症候群(HUS)による後遺症が残った児童も多数で、19年後の2015年には、当時小学1年生でHUSを発症した女性が後遺症により死亡している。

*4
これをEBM/ガイドライン絶対主義とは読まないで欲しい。独自の見解で独自の治療を行うことは否定しない。しかし、それを早々に論文発表して、エビデンス化すべきだということである。
余談だが、何度見ても「標準医療」(標準治療)という表現にはセンスのカケラも感じない。患者は標準を求めるのではなく、最高を求めている。いまからでも変更すべきだ(たとえば「最善医療」など)。

追記

この記事を公開した直後、NHKが子どもの感染者のニュースを配信していた。
新型コロナ感染の子ども 中等症・重症の3分の2が基礎疾患なし
<オミクロン株が感染の主流となっていたことし3月以降に新型コロナウイルスに感染し、中等症や重症とされた主に高校生以下の患者220人を調べた結果、基礎疾患のない人がおよそ3分の2に上ることが日本集中治療医学会の調査で明らかになりました。>
とある。子どもは基礎疾患がなくても感染した場合のリスクが高いという趣旨の記事だが、220人という数字に注目してほしい。
<また、患者の具体的な症状を感染の第7波とされることし6月26日以降から今月28日までに中等症や重症として登録された131人で調べた結果、最も多いのは急性脳症で26%、次いで肺炎が20.6%、けいれんが16.8%などとなっています。
また、およそ60%にあたる79人が集中治療室での治療が必要な状態だったということです。>
「子どもは感染しても無症状か軽症」という発言の誤りを認め、撤回するのに十分な数ではないか。

出典: NHKニュース