大西洋を渡った酵母の話

東京大学の大矢禎一教授(酵母研究が専門/大学院新領域創成科学研究科教授/Homepage)と談笑していたときのことである。ワインとビールを指さして、「どちらがパン酵母に近いと思いますか」と尋ねられた。
とっさに「ビール」と返答し、失敗。ビールもパンも麦を相手にしての発酵ということからの連想だったのだが、正解はワイン酵母だった。「むしろビール酵母が特殊なのです」(大矢)という。

自然界に存在する酵母

酵母はごくふつうに、生活の中に棲息している真菌類である。ワイン酵母の棲み家はブドウ果実の表面だ。絞ったブドウ果汁に当然のように含まれ、酸素のない環境に置かれると酵母がブドウ果汁の糖質を分解して、エタノールと二酸化炭素を生成する(アルコール発酵)。ワイン酵母の学名もSaccharomyces cerevisiaeで、これはパン酵母と同じである。
対して、ビール酵母の学名はSaccharomyces pastorianusである。同じサッカロマイセス属ではあるが、パン酵母とは違う。返答を間違えてしまったので調べなおしたら、ビール酵母のDNAはSaccharomyces eubayanuscerevisiaeのハイブリッド構造になっているそうだ。2種類の酵母が合体して、ビール酵母になっているのである。「特殊」の意味はこれだったか。

eubayanusは南米産

さらに調べていくと、ビール酵母が交配種であり、片方がcerevisiaeであることは判明していたものの、交配の相手がなかなか見つからなかったようだ。ヨーロッパの酵母1000種を丹念に調べても、相手がわからなかったという。
2011年、ついに南米パタゴニア(Patagonia)地方の森深くで、捜し物が見つかった。ビール酵母のもう片方だ。ポルトガル、アルゼンチン、米国の共同チームはこの新種にSaccharomyces eubayanusという名前をつけた。
南米の酵母がヨーロッパに渡り、cerevisiaeと合体し、ビール酵母(Saccharomyces pastorianus)となった。となると、おそらく大航海時代の産物だろう。コロンブスがバハマ諸島にたどりついたのが1492年10月12日のことである。以後、スペインとポルトガルが中南米で略奪のかぎりをつくし、ジャガイモやトマト、トウガラシなど主にナス科の野菜を持ち帰った。そのどこかで、eubayanusがヨーロッパに渡り、ビール酵母を変質させたのだと思う(ただしその後、チベットでもeubayanusが見つかり、遺伝子配列から、こちらのほうがpastorianusの親ではないかという説が有力になっている)。
ビールこれで思い出したのが、バイエルン公ヴィルヘルム4世が出したビール純粋令だ。ビールは大麦とホップと水の3つの原料以外を使ってはならない、というやつである(その後、原料に酵母が加えられた)。バイエルンのビールの品質を向上させるための法で、公布は1516年だ。その時期からみて、背景にビール酵母の変質があったのかもしれないと思う。南米から海を渡ってきたeubayanusがビール酵母を変質させておいしくしたから、ビール純粋令が出されたのではないか、という推理ができる。おもしろい。プラスの方向に行ったからよかったものの、この交配がマイナスの結果となっていたら、きっと歴史が変わってしまっていたことだろう。

蜘蛛は出自がわからない

この話で思い出したのが、蜘蛛の「出身地」がわからない、という話だった。なんと蜘蛛は、糸を出して上空にあがり、ジェット気流に乗って地球を何周もしてから、地上におりてくるのだという。どこから飛び上がった蜘蛛なのか、さっぱりわからないのだそうだ。以上、余談。
(2014年9月8日)

参考資料