東京オリンピックについて

開催反対の署名運動がたちあがったり、代表選手に「辞退しろ」というメッセージが飛んで騒ぎになったり、なんともイヤな日々である。やっても地獄、やらなくても地獄、という感じだ。「お前はどう思うのか」とたまに質問されるので、私の考えをまとめておく。

私たちは「やる気」を見せるのが当然

まさかこんなパンデミックなどという天変地異にも等しい事態が起きるとは夢にも思っていなかったわけだけれども、私たちは、自分たちで誘致運動をし、決定したときは喜んだわけだ。だとすると、基本的に「やる気でいる」のが当然であるべきだと思う。それが誘致をした人間がとるべき責任だろう。

反対意見をみていると、「ちょうどいい、新型コロナを理由にして、政権の足をひっぱってやれ」という感じにしか見えないことが多い。ここが残念なところである。まず必要なのは「誘致したんだから、絶対にやるんだ」という気概だと思う。そして、「どうすればできるか」をみんなで考える。反対する人たちに欠けているのが、「こうすれば、開催できるのではないか」という知恵を出す態度、あるいは知恵を引き出す態度である。

後者は高等なテクニックである。「なぜ中止しないんだ」といくら言っても、反対のための反対にしか見えない。ここはいったん歩みより、「どうすれば開催できるのか、その道筋を示せ。私たちも一緒に考える」というのである。その結果、ロクな対策が出てこなかったところで、叩く。「それでは到底、開催できないだろう」と。

新型コロナウイルス対策でも同じ

オリンピックの議論と、新型コロナウイルスの議論が、もうそっくりで笑える。結局、野党やマスコミは新型コロナウイルスパンデミックを終息させたいのか、させたくないのか、どちらなのか。「1日に100万人にワクチン接種なんて無理」と叩くよりも、「100万人を実現するために協力するから、なんでも言ってくれ」という態度の上で、ろくになんの対策も出てこなかったら批判するという戦術をとるほうが、ずっと印象はいい。

ワクチン大規模接種の予約システムでも話は同じだ。「こうやれば不正に予約がとれる」「穴がある」という報道をするのではなくて、それをいったん責任者にぶつけて、その反応を記事にすればいい。「穴を見つけて、叩いてやる」というのは、いつもならまっとうなジャーナリズムだが、いまは爆弾が空からふっている状態なのであって、そこで「防空壕にこんな不備がある。つくったのは誰だ。責任をとれ」なんてやっている場合じゃない。

究極のところ、東京オリンピックもワクチンの接種率が成否を決めると私は考えている。開催日までに、どれくらい接種できるかが鍵だ。逆にいうと、接種率の目標を政府に言わせて、そこに達していたら開催、達していなかったら返上、というような、具体的な数字で攻めるほうが、納得しやすいのではないか。いまは雰囲気だけで反対しているという印象が拭えないし、この状態で返上を決めたところで、また異論噴出だろう。「全員が努力して必死にワクチンをうちましたが、開催を決断できる実績は積み上げられませんでした」といってやめるか、「ここまで接種できたし、この調子だと観客にもうつことができるので、開催します」というか、である。

署名運動なら世界でやれ

もうひとつ書いておきたいことがある。6000万人の人口で12万人もの方々が犠牲になった国が、オリンピックに参加するという意思を見せているのであれば、いまの日本の状況で「感染がひどいからやめます」は通用しないだろう。反対の署名運動に感じる違和感はそこだ。徹頭徹尾、自分たちの、日本ローカルの視座しかない。国内の政治問題、政権批判の道具としてしか使っていない感じがしてならない。

反対の署名運動をするなら、コロナ禍に悩む各国で署名運動をし、それをIOCに提出するのが筋だろう。